先発、クローザーと活躍した横浜時代
研鑽された技術のぶつかり合いである勝負。そこから離れたときに放たれた野球選手の“ことば”——。今回は斎藤隆(楽天)に注目したい。
横浜(大洋時代含む)、メジャー5球団、楽天と日米7球団を渡り歩いた斎藤隆が昨年ユニフォームを脱いだ。
斎藤は91年、東北福祉大学から大洋ホエールズにドラフト1位で入団。当初は先発の柱として期待され、プロ入り5年目の96年には初の二ケタ勝利とともに最多奪三振のタイトルも獲得した。翌年こそ肘の軟骨除去手術を受け棒に振るが、98年には38年ぶりの横浜ベイスターズ日本一の原動力となった。
大魔神・佐々木のメジャー移籍により、守護神として白羽の矢が立ったのは斎藤である。01年、02年とストッパーを務めたが、03年からは精彩を欠き05年の成績は21試合に登板して、3勝4敗1ホールド。そんな状況で、斎藤はある決断をする。
「一度でもいいからメジャーリーグで投げたい」
球団と家族を説得し、横浜を自由契約となりメジャーに挑戦。しかし、36歳という高齢だけでなく、不振続きの成績という条件もあり、斎藤に届いたオファーはマイナー契約であった。斎藤はドジャースのキャンプに招待選手として参加する。
37歳で日本人のメジャー最速159キロをマーク
メジャー開幕直後、ドジャースのクローザーが故障。斎藤はメジャーへ昇格し、クローザーも務めこととなる。1年目の成績は6勝2敗24セーブ。前評判を覆す大活躍となった。
翌07年には日本人のメジャー最高球速となる99マイル(159キロ)のボールを投げ、37歳になっても進化できることを自らの肉体で証明した。その後、2012年までメジャー5球団に在籍し、84セーブを挙げる。
13年「たくさんの縁がある」という地元・仙台の楽天に復帰し、リリーフ、クローザーとして日本一に貢献。14年こそ31試合に登板したが、昨季は戦力になれず8月に現役引退を表明。
引退セレモニーの挨拶では、「わたしの体は限界です」と漏らした。先発、中継ぎ、抑えとどんな状況でも投げ続けてきた男の最後の言葉は悲痛ではあったが、一方で表情は晴れやかだった。日米24年間の通算成績は、112勝96敗139セーブ。
100勝100セーブの達成者はプロ野球史上でもたったの8人しかいない。江夏豊、佐々岡真司、上原浩治……など、そうそうたる顔ぶれだ。斎藤には、他のメンバーのような派手さこそ感じないが、苦境でも絶対に諦めない強い意志を感じさせた投手であった。本人も著書で以下のように語っている。
「野球選手として、子どもたちに何かを伝えられるとしたら、諦めない気持ち、挑戦し続けることの大切さ」
引退後はインターンとしてMLBパドレスで編成業務を担当する。フロント業務を学ぶための無給での留学は異例だが、日米で活躍した斎藤だからこそ選べた道でもある。
また、3月からは野球日本代表の投手コーチに就任することも発表された。斎藤の挑戦はきっと日米の架け橋となる。実績を積み上げてきた男の、“諦めない力”はどのように花開くのだろうか。
文=松本祐貴(まつもと・ゆうき)