「121」からの再出発
2月1日――。ヤクルト二軍の宮崎・西都キャンプに、由規の姿があった。
ただ、例年と違うのは背番号が「121」になっていたこと。由規は昨年オフ、育成選手として契約。背番号は「11」から「121」に変わった。プロ9年目、復活を目指す由規の挑戦がスタートする。
由規が一躍知名度を上げたのは、仙台育英高時代の2007年・夏の甲子園だった。2回戦の智弁学園戦では、甲子園最速となる最速155キロを計測。また、抜群のキレ味を誇るスライダーは、見守ったスカウトからも「あの球はプロでも打てないよ」とこぼれるほどの絶賛を受けた。
同年秋の高校生ドラフトでは、5球団が競合した末にヤクルトが交渉権を獲得。直後の会見で号泣する様子は大きな話題を呼んだ。
そして、プロ1年目から一軍の舞台を経験。9月6日の巨人戦ではプロ初勝利を挙げるなど、1年目は2勝1敗で終えた。
2年目の2009年には開幕から先発ローテーションに入り、球速も157キロを記録。高校時代から成長した姿を見せつける。この年は結局5勝10敗と負け越すも、初のオールスター出場も果たし、館山昌平、石川雅規に続く先発3番手として台頭した。
迎えた2010年、由規にとって大きな飛躍の年となった。167回2/3を投げて規定投球回数に到達。12勝を挙げてプロ入り初の2ケタ勝利をマークする。
中でも強烈な印象を残したのが、8月26日の横浜戦。この試合で自己最速を更新する161キロを計測し、自慢のストレートにさらに磨きをかけた。この頃は、同年に11勝を挙げた同世代の左腕・村中恭兵とともに、将来のヤクルト先発陣を引っ張っていくだろうと誰もが思っていた。
プロ野球人生を狂わせた右肩痛
ところが、プロ5年目の2012年。由規の運命は一転する。
前年のシーズン終盤に痛めた右肩痛が回復せず、プロ入り後初めて一軍未登板に終わる。翌年には右肩のクリーニング手術を受け、再起に懸けた。
2014年にはイースタンリーグで実戦復帰を果たし、球速も155キロを計測。復活をアピールし、一軍復帰も間近かと思われたが、昇格はならなかった。気がつけば、最後の一軍登板からは、もう5年の月日が流れている。
由規が昨年まで背負っていた背番号「11」といえば、荒木大輔の姿を思い出すファンも多い。
彼もまた由規同様、ケガに苦しんで一軍から遠ざかりながらも、奇跡のカムバックを果たしている。今の由規の状況に、かつての荒木と重ねるファンも少なくはないだろう。
由規が思い描くのは、支配下登録を果たして背番号「11」を取り戻し、神宮球場のマウンドに立つことだ。
神宮球場にあの剛速球が戻ってくるのは、そう遠くはないと願いたい。