驚異的な登板数を誇る鉄腕
これまでの通算成績は、889登板、54勝43敗44ホールド402セーブ。プロ野球通算セーブ記録を持つ、脅威の鉄腕・岩瀬仁紀(中日)が残してきた数字である。
日本国内におけるセーブ数2位は、高津臣吾の286セーブ。3位が佐々木主浩の252セーブという数字を見ると、今後、抜くことはかなり困難な記録だ(日米通算だと高津は313セーブ、佐々木は381セーブ)。
通算登板数は、1位・米田哲也の949、2位・金田正一の944についで岩瀬の889登板がくる。米田、金田はそれぞれ通算350勝、400勝のレジェンド。しかし、1968年の米田は、先発43登板、救援で20登板という今ではありえない数字なので、やはり現代野球における岩瀬の登板数は驚異的だ。
岩瀬は大学時代までは野手を兼任し、当時は打者として注目されていた。社会人野球NTT東海を経て、1998年中日を逆指名し、ドラフト2位で入団。ルーキーイヤーから開幕を一軍で迎え、最優秀中継ぎ投手賞を獲得した。03年までは主に中継ぎで起用され、安定した成績を残す。
04年、前年のクローザー・大塚晶則のメジャー移籍にともない、岩瀬に大役が回ってきた。岩瀬は30歳を迎えるシーズンで、経験、気力ともに充実していたことだろう。だが、開幕直前、自宅の風呂場で転倒し、左足の小指を骨折。前半戦は不調に陥り、22セーブに終わる。
「守護神として生きるか死ぬかしかない……」
05年からは、不動の守護神としてセーブを積み重ねていく。250セーブ達成時は「一つひとつの積み重ねてきた結果がこうなった」とコメント。350セーブのときは「毎日ケガをしないように同じルーティンをすること。次の目標は351セーブ」と岩瀬のストイックさを表すかのような短い談話を残した。
中日、横浜などの投手コーチを歴任した権藤博は岩瀬をこのように評す。
「岩瀬は“一流の臆病者”。危ないと思ったら簡単に勝負にいかず、これなら大丈夫というところまで、必死に我慢する。単に用心深いのとは違う」
だが、鉄腕・岩瀬をケガが襲う。14年シーズンの途中、左ひじの張りを訴え登録を抹消されると、15年は一軍どころか二軍でも登板が一度もなかった。その岩瀬が今年の春季キャンプでは554日ぶりに実戦のマウンドに立った。
登板のなかった2015年のオフ、岩瀬はインタビューに以下のように答えている。
「抑えを10年以上やってきて、今から他のところをやれるかって言ったら答えはやれない。だからそこで生きるか死ぬかしかないと思っている……」
岩瀬の復活に賭ける気持ちには、悲壮感すらある。昨年の秋からは「投げられなかったときに思い切ってやろうと。やりたいことをやって、ダメなら諦めもつく」とフォーム改造、新球への挑戦も始めた。「抑えができないときは辞めるとき」と本人は何度もインタビューで繰り返している。
今年の11月で42歳になる、鉄腕・岩瀬仁紀の進退を賭けたシーズンが幕をあける。
文=松本祐貴(まつもと・ゆうき)