“俺たちの時代”80~90年代のプロ野球を語り尽くそう -90年代巨人の4番候補編-
2008年にドラフト1位で巨人に入団し、期待されながらも伸び悩んでいた大田泰示。だが、2014年は夏場以降一軍に定着。4番スタメンも経験した。今季のキャンプでも『眠れる主砲』がようやく目を覚ますのではないかと注目されている。
このような光景を見て思い出されるのが、一時は大田も背負っていた背番号「55」の先駆者・松井秀喜の存在だ。特に松井の場合は、当時の長嶋茂雄監督の選手獲得方針もあって、他球団で4番を打っていた選手を片っ端から獲得していた時代である。本人にとっては、勉強になり負担が軽くなった反面、プレッシャーもかかっていたことだろう。
そのメンバーがどれほどすごかったか? 今回はそれをテーマにした。90年代に巨人の4番打者候補となった男たち。人数は多いが、該当者と思われる選手を全員並べ、徐々に大物となっていく臨場感が出るように、いつもとは逆の下位から上位の順に紹介していく。
国内外問わず豪勢な名前が勢揃い!
まず、第9位にはジャック・ハウエルを挙げた。1992年にヤクルトで本塁打王を獲得して優勝に貢献したが、1994年オフに退団になると巨人が獲得。実際にプレーしたのは1995年前半だけで、松井との共演や競合というのはほぼなかったが、ペタジーニ、ラミレスなどが同じ道をたどる「ヤクルトで活躍→巨人へ移籍」という流れを作ったパイオニアである。
続いて第8位は江藤智。90年代は広島の4番打者としてプレーしたので厳密には対象外だが、FAで巨人に移籍後の2000~2002年に松井と一緒にプレーしているのでランクインとした。巨人でも2年連続30本塁打以上を記録するなど、右の大砲として存在を示している。
そして、第7位はシェーン・マックをチョイス。ツインズで活躍していたメジャーリーガーとして巨人に入団。1995~1996年の2年間、松井とプレーした。守備や走塁も良く、時には1番打者も務め、真摯な性格と申し分ない選手だったが、『現役メジャーリーガー』というと、当時は多くのファンが“大砲”として期待してしまうため、1995年は20本、1996年は22本だった本塁打数には「あれっ?」と思った人が多かったのではないだろうか。
さらに、第6位は広沢克実を選んだ。ヤクルトの主砲として90年代前半まで活躍し、1994年オフにFAで巨人に移籍。だが、すでに落合博満がファーストにいるのに「どこを守るんだ?」という疑問は拭えず。過去にプレー経験があるとはいえ、外野に回る姿に痛々しさを感じた。その点、本人のひたむきなプレースタイルだけが救いだった。
次に、第5位にはマルディネスが登場。ドミニカ出身の「マルちゃん」は、1997~1998年に西武でプレーして退団したが、1999年の途中に巨人で日本球界に復帰した。広沢と同じく「どこ守るんだ?」論が展開したが、不慣れな外野にも挑戦。当時ファーストだった清原和博の故障の穴を埋めるなど、その存在に救われた時期もあった。
さらにさらに、第4位まで一気に行こう。4位は「拝啓、石井浩郎です」というサムライ口調のナレーションをあてて毎週放送されたスポーツ番組のミニコーナーですっかり有名になった石井浩郎だ。近鉄「いてまえ打線」の4番として活躍後、1997年に巨人に移籍した石井は、移籍直後こそ元来の勝負強さを発揮して「さすが!」と思わせたが、故障も多く、年間フルに活躍し続けるには至らなかった。
3位には何かと松井と“被る”現役の高橋由伸 そして1位と2位は...
ここからはいよいよベスト3に突入。第3位は今も現役で頑張る高橋由伸とした。松井より1歳年下で、1998年に将来の巨人の主軸候補として入団してきたこの男は、その能力だけでなく、球団での位置づけなどから考えても、松井の最大のライバルと言っていいのではないだろうか。今後も2人の絡みには大いに注目したい。
そして、第2位は「番長」こと清原和博しかいないだろう。1996年オフにFA宣言し、宿願だった巨人に移籍。松井と都合6年間、クリーンアップを組んだ。だが、巨人では期待が大きかった分、成績的に振るわなかったと言わざるをえない。時折、「さすが」と思わせるバッティングも見せたが、故障も多くフル出場できないことが多かったのは残念だった。
ここまで来たら、ラスボスはもうわかっただろう。そう、第1位は落合博満だ。落合がFAで入団してきた1994年の松井はまだ2年目。当時すでに40歳で、やや力の衰えを見せ始めていた落合だが、その存在感は揺るぎなく、松井にとっても色々な意味で大変な刺激になったはずである。1994年の開幕戦で3番松井・4番落合と並んだ打順でともに本塁打を打ったシーンは、今考えると世代交代を前提とした夢の共演であった。
文=キビタキビオ(きびた・きびお)