崖っぷちのプロ15年目、32歳がバットで魅せる!
前半戦を終えたプロ野球。オリックス、楽天、ロッテ、3チームの自力優勝がなくなったパ・リーグに対し、セ・リーグは大混戦が続いている。結局、DeNAが首位で折り返すことになったが、「首位チームなのに貯金なし」の42勝42敗。5位の広島まで2ゲーム差、最下位の中日も4ゲーム差につけている。
昨年は2位ながら、CSを勝ち抜いて日本シリーズに進出した。ソフトバンクに1勝4敗と完敗した日本シリーズで、流れが変わってしまったといわれたのが第2戦だった。ホーム・甲子園での初戦に快勝した翌日、21歳の武田翔太にあわやパーフェクトという完封負けを喫したのだが、初ヒットを放ったのが代打・狩野恵輔。今季はここまで44試合に出場し、打率.293といい働きをしている。
狩野は1982年12月生まれ、現在32歳、今年でプロ15年目を迎える。群馬県勢多郡赤城村(現・渋川市)出身で、赤城村立北中学校(現・渋川市立赤城北中学校)では軟式野球部に所属した。群馬県は中学軟式野球が盛んな地域のひとつで、駿太(オリックス)は渋川市立渋川中学校の軟式野球部出身。斎藤佑樹(日本ハム)は新田町立(現・太田市立)生品中学校のエースとして、関東大会に出場している。
中学卒業後は、県内屈指の強豪である群馬県立前橋工業高校へ。強打の捕手として注目を集めるも、甲子園には届かず。3年夏の群馬県大会は決勝まで進んだが、一場靖弘(元・ヤクルトほか)がエースの桐生第一高校に敗れた。
迎えた2000年秋のドラフト。逆指名制度が採用されていたため、抽選なしの「無風ドラフト」となる中、狩野は阪神の3位指名を受けた。8人を指名した阪神で、高校生は狩野と加藤隆行の2人だけだったことを振り返ると、その期待の大きさがうかがえる。
「代打の神様」――八木裕、関本賢太郎、そして、狩野恵輔!
矢野輝弘、野口寿浩らがいる中で将来の正捕手候補として育てられ、一軍初出場は2004年。2006年はファームで首位打者(史上7人目の規定打席未到達)、自己最多の10本塁打。翌2007年は、一軍で54試合に出場。2008年は12試合出場にとどまったが、オフにはベテラン・野口が移籍。2009年は127試合出場を果たし、いよいよ正捕手・狩野の誕生と思われた。
しかし、そのオフ、メジャーリーグ帰りの城島健司が加入。狩野は打撃力を生かして外野手に、という構想が浮上した。2005年以来の優勝を狙って、スーパーキャッチャー・城島を獲得した球団の思惑もわかるが、せっかく狩野が育ってきたところだったのに……と改めて思う。もちろん、勝負の世界だから、実力で城島を押しのければいい。しかし、狩野にとって最大の不幸というべき、椎間板ヘルニアを主な原因とする腰痛を発症。手術まで経験する、長い長い戦いが始まることになる。2012年オフには、治療に専念するため育成選手契約となることが発表。2013年7月に支配下登録に戻ったが、正捕手・狩野という構想は消えていた。
2014年はルーキー・梅野隆太郎が台頭。外野手登録の狩野は8月29日、腰痛の新井良太に代わって一軍登録。即スタメンとして起用されると、ホームランを含む3安打4打点と大活躍。「一軍はいいなと思いました」「ラストチャンスだと思って行きましたけど、必要以上に自分を追い込むことなく、戦力になろうという気持ちでした」とコメント。12試合の出場ながら、打率.292を残した。
日本シリーズでの武田からの一打も評価され、100万円増の900万円(推定)で契約更改して迎えた2015年。キャンプは二軍スタートも、「代打の神様」と呼ばれた八木裕コーチとじっくり練習に取り組むことができた。さらに、オープン戦期間中は、1歳年上の鳥谷敬からアドバイスをもらうなど、バットにかける思いはひとしおだった。
野手の中では、八木コーチの系譜を継ぐ「代打の神様」関本賢太郎に次ぐ年齢。その関本が故障に苦しむ今季は、狩野こそが「代打の神様」としてチームを支えている。和田豊監督は、「狩野は代打で何かをつかみたいという。開幕からこれでメシ食っていくという姿勢があるし、気持ちも強くなっている」と目を細める。
インタビューでは「必死です」「最後だと思って……」といった発言が出るが、それは心からの言葉だろう。プロ15年目、弱い時期も強い時期も知るだけに、「みんなで戦わないと勝てない」とベンチを動き回り、選手に声をかけ、劣勢でも盛り上げる。
こんな「代打の神様」がいる阪神タイガース。10年ぶりの優勝を目指す戦いを見る時は、狩野が出番を待つベンチの中まで注目していきたい。
文=平田美穂(ひらた・みほ)