大混戦のセ・リーグで健闘するヤクルトの正捕手
オールスターが終わり、後半戦に入ったプロ野球。大混戦のセ・リーグは、ヤクルト、阪神、巨人、DeNAが、1~4位をめまぐるしく上下するプロ野球史上稀に見る展開。中でも、2013、2014年と2年連続最下位に沈んだヤクルトの戦いぶりは、大健闘といえるだろう。
後半戦最初のカードは、前半戦を首位で折り返したDeNAとの3連戦。初戦、2戦目とヤクルト打線が大爆発するなどして3連勝したわけだが、新垣渚、小川泰弘、石川雅規と先発投手を勝利に導くリードをしたのが、捕手・中村悠平である。
大野市立陽明中学校では、軟式野球部に所属。3年生のとき、福井県の選抜チーム「福井クラブ」の正捕手に選ばれ、全日本少年軟式野球大会に出場した。1回戦敗退も、6番・捕手でスタメン出場。対戦相手の岡山県選抜チーム「岡山クラブ」には、2年生の控え投手として岡大海(現・日本ハム)がいた。なお、同大会には、則本昂大(滋賀・彦根クラブ/現・楽天)、笠原将生(高知・明徳義塾中クラブ/現・巨人)、今村猛(長崎・小佐々中クラブ/現・広島)も出場。則本はエースで5番、主将と現在の姿に近いが、笠原は外野手の控え、2年生の今村は内野手だった。
中学卒業後は、県内屈指の名門・福井県立福井商業高校に進学。1年秋から正捕手となった。当時の指導者によれば、入部当初から野球に対してどん欲。練習中にメモを取り、夕食時には野球中継を見て、配球やリードを学んでいたという。
努力が実り、中村がホームを守る福井商業高は、2年夏(2007年)、3年夏(2008年)に甲子園出場を果たす。2年夏は初戦で、「がばい旋風」を巻き起こして優勝する佐賀北高校に敗退。3年夏は、1回戦で酒田南高校(山形)に勝つも、2回戦で橋本到(現・巨人)を擁する仙台育英高校(宮城)に敗れた。
チームとしては栄冠を手にできなかったが、中村悠平の名はドラフト候補としてあがる。「地肩、フットワーク、しなやかな腕の振りで見事な送球をする、本物の強肩捕手」という絶賛コメントが当時の野球専門誌に載っている。
2008年ドラフトで、ヤクルトが3位指名。この年、ドラフト指名されてプロに入った主な高校生は、浅村栄斗(大阪桐蔭高→西武3位)、西勇輝(三重・菰野高→オリックス3位)、橋本到(仙台育英高→巨人4位)、中島卓也(福岡工業高→日本ハム5位)など。中村を含め、3位以下の選手が多く活躍しているのは興味深い。
「25歳」は名捕手・古田敦也をめざすスタート地点
プロ1年目の2009年は、一軍で5試合(5打席)出場。横浜から捕手・相川亮二がFA移籍してきた年で、相川は2011年まで3年連続120試合以上出場を果たすことになる。中村は2年目の2010年、プロ初安打、初打点を記録しているが、出場は3試合のみ。しかし、ファームでは早くもレギュラー格の捕手となり、着実に成長を続けていた。3年目はチーム内で、捕手としてファーム最多の56試合に出場。そのかたわら、一軍では3番手捕手の位置にあり、長く一軍に帯同した。
4年目の2012年はケガで離脱した相川の穴を埋め、自己最多(当時)の91試合出場。翌2013年も相川がケガに見舞われ、84試合出場。自らも11月に右ヒジじん帯損傷を負うも、6年目の2014年は、自己最多を更新する99試合出場。監督推薦で、オールスター初出場も果たしている。
振り返ってみれば、相川が移籍してきた年に入団。その間、自分より年上の捕手がドラフトを経て入団してきたこともあった。それでも、相川が去った年には正捕手を務められるまでになっているのだから、ヤクルト球団の慧眼と、期待に応えた中村の成長は見事としか言いようがない。
今季はここまで、セ・リーグの捕手で唯一の規定打席到達者で、オールスター第1戦では全セのスタメン捕手として出場。菅野智之(巨人)、藤浪晋太郎(阪神)の球を受け、2安打を放ち、「ヤクルトの中村悠平」を存分にアピールした。
ヤクルトの捕手といえば、監督まで務めた古田敦也の印象が強く、中村も目標の一人として古田の名前をあげている。現状、同じヤクルトの正捕手ということで、野球殿堂入りした古田と中村を比べるのは酷というものだろう。しかし、古田がプロ入りしたのは25歳の年。現在の中村の年齢でのことだったのだ。
混沌とするセ・リーグのペナントレース。これから先、しびれる試合の一つひとつが、中村の血や肉となっていくはずである。ヤクルトの若き正捕手・中村悠平。伸び盛りのプレーは後半戦の楽しみになる。
文=平田美穂(ひらた・みほ)