誰よりも勝つ喜びを知る男は、誰よりも負ける怖さを知っていた――
巨人V9時代は扇の要として川上哲治監督の信頼を一身に受け、西武の監督に就任すると9年間で8度のリーグ優勝に6度の日本一。
球界広しと言えど森祇晶ほど勝ち続けた者はいない。「名選手、必ずしも名監督とはならず」とはスポーツ界でよく使われるフレーズだが、常勝の男には彼だけが知る必勝法があった。
長丁場のペナントレースでは、どのチームにも波がある。調子のいい時はイケイケ、悪くなるとあの手この手で打開策を図るのはよくあるパターンだ。だが、森は長いスパンで戦略を組み立てるので、一喜一憂することはほとんどない。
そのひとつが、敗戦数から組み立てる「6勝4敗」の理論だ。当時の公式戦の試合数は130。これを10試合ずつで「4敗までは出来る」と計算すると、この間の貯金は2。逆に考えるなら、シーズンを通して56敗までは許容範囲となるわけだ。これで勝率は6割、十分に優勝ラインに届く。短期決戦の日本シリーズでも、「3敗まで出来る」と常に最悪の場合を念頭に置く。
最も嫌うのは連敗である。3連戦を仮に1勝2敗と負け越しても、次の3連戦を勝ち越せばオーケーとなるが、大型連敗を喫すると致命傷になりかねない。そのために投手のローテーションに細心の注意を払う。シーズン終盤の勝負所まではエース級の酷使は避け、時には「捨てゲーム」まで作るのだ。無理せず我慢。これが鉄則だ。
そして、決戦の時には満を辞して工藤、渡辺、郭泰源らのエースを投入するから栄光のゴールにたどり着く確率は高い。もちろん、打者にも秋山、清原、石毛ら優秀な戦士が揃っていたからこそ出来ること、という指摘も当てはまるだろう。
しかし、選手たちの能力がどんなに高くても、それを統率して常勝軍団に仕立て上げるのは至難の業。長い歴史でこれだけの戦果を上げているのは、V9巨人とこの森西武しかないことが証明している。
座右の銘は「忍」。まさに耐えて忍んで活路を見出してきた。巨人時代は絶対的なレギュラー捕手にもかかわらず、大橋や槌田といった東京六大学で活躍してきた有能な選手を次々に獲得すると競わされた。
ヤクルト、西武のコーチ時代は広岡達朗の下で嫌われ役に徹した時期もある。門限の厳しいチェックで「CIA」と陰口を叩かれたことも。監督で見事な実績を残してからも、当時のオーナーである堤義明にV報告の席で来季去就に関して「(監督を)やりたければどうぞ」と言い放たれたこともある。
こんな苦労があったからこそ、指揮官になってからも「気配りの人」に徹した。選手が落ち込んでいると試合後の自宅まで電話して励ます。優勝時のペナント授与行進の際にも、監督が誇らしげに先頭を歩くケースが多いが、選手を前面に出して後ろから歩いている。
森西武の強さの象徴的なプレーとして語り草になっているのが、1987年の巨人との日本シリーズだ。
大きなヤマ場となった8回に球史に残るビッグプレーは生まれる。一塁走者の辻が、秋山の中前打で一気に本塁まで生還したあのシーン。巨人のセンター・クロマティの緩慢な守備を事前に調べ上げたうえでゴーサインが出されたのだが、この瞬間に決戦の勝負もついた。
千に一つ、いや万に一つの可能性まで調べ上げ、事前ミーティングで全員の意思確認をして実践につなげる。そして極上の選手たちを的確な視野で統率する。最強軍団の凄みがそこにあった。(敬称略)
文=荒川和夫(あらかわ・かずお)