ドラフト最下位入団の20歳がチームの救世主に
首位の背中ははるか遠く、DeNAと最下位争いをくり広げるのがやっとの中日。かつてのAクラス常連が、Bクラスに沈んだままである。
谷繁元信兼任監督の後を担うキャッチャーがいないと言われ続けてきたが、「投手王国」と呼ばれた投手陣にも陰りが見える。復活を期す吉見一起は本調子ではなく、ここまでの二桁勝利は大野雄大のみ。先発の頭数が足りず、低迷するチームの希望の星が、3年目の右腕・若松駿太だ。6月2日の西武戦でプロ初勝利をあげると、ローテーションに定着。以後、8月末まで7勝3敗。大野に次ぐ勝ち星を稼ぎ、まさに救世主となっている。
若松は1995年2月生まれの20歳。福岡県久留米市出身で、久留米市立安武小学校4年生のとき、本格的に野球を始めた。久留米市立筑邦西中学校時代は、硬式チームの久留米ペトリオッズ(当時、ジャパンリーグ)に所属。3年夏にはリーグ代表として、中学硬式日本一決定戦といわれる、第3回全日本中学野球選手権大会(通称・ジャイアンツカップ)に出場している。
中学卒業後は、久留米市内にある祐誠高校に進学。土木科に在籍し、小型車両系建設機械に関する資格を取得。3トン以下の重機を扱うことができるという。野球部では投手兼内野手として練習を重ね、2年秋からエースとなった。自宅から学校まで約10キロを自転車で。自宅から最寄りのコンビニまで約2キロをランニングで。そんな毎日の積み重ねで「下半身が自然と鍛えられたというのはあると思います」と振り返る。しかし、3年夏は福岡県大会2回戦敗退。甲子園出場はならなかった。
2012年秋のドラフト。注目が集まったのは、甲子園春夏連覇のエース・藤浪晋太郎(大阪桐蔭高→阪神)と、160キロ右腕・大谷翔平(花巻東高→日本ハム)。藤浪を4球団が指名し、メジャーリーグ挑戦を表明していた大谷を日本ハムが強行指名。一気に上がった会場のテンションがすっかり下がった頃、若松駿太の名前が読み上げられた。中日ドラゴンズ7位、ドラフト会議で一番最後のコール(育成除く)だった。全国的にまったく無名の存在で、プロ球団から学校に調査書が届いたのは中日のみ。「育成でもいい」と思っていた若松は、指名を知ると涙を流したという。
ストレートの改良とチェンジアップ習得で大ブレイク
1年目は一軍登板なし。下位指名の高校生なら当然で、1年目は体作りに専念するところ。しかし、春先から二軍のマウンドに立ち、20試合(43回)で3勝2敗という数字を残した。さらに、11月に行われた秋季キャンプの紅白戦で好投。谷繁監督ら首脳陣の高評価を受け、「監督賞」を獲得。大健闘のプロ1年目だった。
2年目の昨年は、一軍で先発2度を含む7試合に登板。二軍でも17試合に登板し、着実に実戦経験を重ねた。一軍初登板の4月3日は、1イニングを三者凡退。しかし、4月10日のプロ初先発は、ヤクルトを相手に4回、4失点で降板。この結果に、ストレートの重要性を実感したという。谷繁監督やコーチ陣、先輩投手陣からも「ストレートを磨け」とアドバイスを受け、強化ポイントの一つとした。
3年目の今季は、6月2日の西武戦でプロ初勝利。6回を投げて3安打6四死球。三者凡退は一度だけながら、粘り抜いての130球で、8奪三振、無失点。磨いてきたストレートとチェンジアップが冴え渡り、「ピンチでもしっかり腕を振って、強気で投げられました」と振り返った。ウイニングボールは、2014年に亡くなった担当スカウト・渡辺麿史さんの遺影に。「無名だったぼくを見てくれた人」と感謝の心が尽きることはなく、帽子のつばの裏には、渡辺スカウトの名前が書いてあるという。
8月2日の巨人戦では、プロ初完投初完封。散発5安打、三塁を踏ませぬ好投も、まずは8連敗中のチームを思い「連敗を止めることができました」とコメント。谷繁監督は「チームが苦しい中で完封するのは、ものすごくパワーがいる。それができた」と褒め称えた。8月23日のヤクルト戦では、自身4連勝で7勝目をマーク。前夜に13失点を喫したチームのムードを変える、意味ある勝利をもたらした。
自身5連勝と「8月負けなし」がかかった30日の巨人戦は、5回、6失点で降板。谷繁監督も「わからない」と首をひねる乱調で、5点差をひっくり返された。若松は「球が高いのを修正できませんでした。点を取ってもらったのに取られてしまって、野手のみなさんに申し訳ないです」とコメントした。それにしても、ドラフト7位の入団で、今年プロ初勝利をあげたばかりの20歳。その敗戦が大きく報じられるというのは、若松駿太がプロの投手として認められた証といえる。
恩人である渡辺スカウトは生前、「3年で出てくればいい」と話していたという。その言葉どおり、3年目の大ブレイク。低迷するチームの浮上と、伝統の投手王国復活を、20歳の若武者が担っていく。
文=平田美穂(ひらた・みほ)