コラム 2015.09.29. 05:30

輝かしい伝説を作った指揮官たち  1990年代名将ランキング

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04年当時の仰木彬氏(中)[Getty Images]

急死した中村勝広GM(阪神)は監督として指揮した時代 1990年代は個性的な監督の宝庫だった


 9月23日に中村勝広GM(阪神)が急死するという訃報が走った。中村GMといえば、小兵ながら堅実な攻守で活躍した現役時代はもちろんのこと、1992年には監督として、当時低迷していた阪神を優勝まであと一歩に迫る2位に押し上げた人物だっただけに大変惜しまれる。

 考えてみると、1990年代には同氏のほかにもファンを唸らせた指揮官が数多く存在していた。そんな名将たちに思いを馳せ、実績の高い順にランキングで紹介していきたい。


充実した戦力を使いこなして黄金時代を作った森 野村は「ID野球」で弱小だったヤクルトを底上げ


 1990年代、もっともリーグ優勝をした回数が多かったのは、森祇晶(西武)の5回だ。1980年代に根本陸夫、広岡達朗両監督が築いた土台を継いだ森は、それを見事に昇華させ黄金時代とした。

 1989年こそ、前年「10.19」の敗戦をバネに雪辱に燃えた近鉄に敗れたが、1990年から5年連続でリーグ優勝。1992年までの3年間は日本シリーズも制して日本一であり続けた。

 当時のメンバーは、石毛宏典、秋山幸二、清原和博、デストラーデ、辻発彦、平野謙、伊東勤、田辺徳雄など、主役脇役とも充実した剛柔自在の打線を誇り、渡辺久信、工藤公康、郭泰源といった能力の高い先発投手陣、鹿取義隆、潮崎哲也、杉山賢人などの優秀なリリーフ陣が揃い、戦力として申し分なかったのは確かだが、毎年「優勝候補筆頭」と言われてプレッシャーのかかるなかで、堅実に勝ち続けた采配は、当然、1位として申し分ないだろう。

 続いて第2位は、ヤクルトの監督として「ID野球(ID=インポートデータ)」でセ・リーグ優勝を4度、そのうち3度は日本一という成果を挙げた野村克也とした。野村は1位の森とはまさに対照的で、就任するまで長年Bクラスだったヤクルトを、理詰め重視の徹底的な意識改革で底上げし、戦力不足を一芸に秀でた選手の登用や、データに基づき相手の弱点を突く戦術などを用いて弱くても“勝てるチーム”を作った。

 1990年代は「王道の西武」と「奇襲のヤクルト」が日本シリーズで対戦する図式が多く、ひとつの基軸を成すほどになっている。また、野村はリーグ戦においては、後述する長嶋茂雄監督の巨人に対して強力なライバル意識を燃やしており、意識的に挑発の構えで巨人戦に臨むことで、この時期のプロ野球を大いに盛り上げた。


左打者が恐怖に震えた石井一久の荒れ球 野茂は四球の多さもレジェンド級だった


 その話の流れを汲んで次は長嶋を登場させたいところだが、仰木彬を3位に割り込ませたい。近鉄の監督として1989年に「打倒西武」を果たしてパ・リーグ優勝を成し遂げたあとは、結果的には再び王者に返り咲いた西武の苦汁をなめるシーズンが続いたが、1990年に入団した野茂英雄の独特なフォームを修正することなく生かすなど、選手の個性を伸ばす方針によって一度爆発したら止まらなくなる近鉄「いてまえ打線」を形成。西武の管理野球に真っ向から対抗し、毎年、ハイレベルな優勝争いを演じた。

 そして、近鉄の監督を退任後は、1994年にはオリックスの監督に就任。イチロー(マーリンズ)や田口壮といったスター選手を輩出し、試合ではファンが驚くような山師的な選手起用や采配が次々と的中する「仰木マジック」が冴えた。1996年には、近鉄時代に成し得なかった日本一も手中に収めている。1990年代の監督として、間違いなく主役格であったと言えるだろう。

 そして、最後に長嶋茂雄を挙げておきたい。監督の実績だけで言うと、FA制度やドラフト逆指名などによって集まった巨大戦力を誇りながら、上記3監督の後塵を拝した印象が強く4位とせざるを得なかったが、この時代を牽引したひとりであることに違いはない。

 第一次政権を退任した1980年以来13年ぶりとなる1993年の就任以降、1994年の中日とのシーズン最終戦でリーグ優勝を決めた「10.8」や、1996年には一時、首位に11.5ゲーム差をつけられた状態からの快進撃で逆転優勝を飾る「メークドラマ」演出するなど、常にプロ野球の話題の中心として君臨し続けた。

文=キビタキビオ(きびた・きびお)
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