コラム

ロッテのお家騒動-元・名物番記者が語るプロ野球ちょっと裏話-

35年ほど前にも信じられない騒動が…


 ロッテ本社が揺れに揺れている。創業者である重光武雄氏の老齢化に伴う後継者を巡って長男である宏光氏と次男の昭夫氏が激しく対立。一時は長男側が父親も同意のもとで次男の排斥に動くが、ロッテホールディングスの役員会で多数派を占める昭夫氏が逆襲に転じると武雄氏と宏光氏の退陣を決めてしまった。この問題は今でも法廷に戦いの場を移して長期戦の様相を呈している。

 そのロッテが野球界に進出したのは35年ほど前のことだ。当初は球団経営にそれほど熱心とは言えなかったが、毎日、テレビや新聞で「ロッテ」が報じられる。宣伝効果は抜群だ。加えて重光武雄オーナーが渡米した際にシカゴ・カブスの存在を知る。親会社は同じチューインガムを作るリグレー社だがメジャーリーグのオーナーのステータスは信じられないほど高い。確かに日本でも数ある大企業の中で12人しか球団オーナーはいないのだからその価値は計り知れない。これが長きにわたる球団経営の礎になったと言われる。

 何で「お家騒動」の話を持ち出したかと言うと、筆者がロッテ担当だった頃にも、監督交代を巡ってこの会社ならではの信じられない騒動を経験したからだ。

 1978年のシーズンオフ直前のこと。当時のロッテ球団の社長である松井静郎がスポーツニッポン新聞社社長の和田準一を訪ねてきた。用件は専属評論家である山内一弘を金田正一に代わる次期監督に招請したいという要請だった。

 和田はロッテの前身である毎日オリオンズの球団代表も務めた男。その時代の主砲である山内の現役引退後の面倒を見てきた。我が子同然の山内に対するラブコールに異存あるわけもない。即決で内諾を与えた。担当記者にとってもその場に居合わせた喜びと共に1面ニュースを手に入れたのだから内心では小躍りしたものだ。

 それから数日後。いよいよ新監督発表に合わせて「ロッテ 山内監督誕生」の見出しがスポニチ紙面を飾った。ところが当日の朝にライバル紙を目にすると「ロッテ 野村監督」と報じているではないか?それでも確たる現場に居合わせた当事者にすればまだ自信に揺らぎはなかった。だが、それから数時間後にあり得ない光景を目の当たりにすることになった。東京・初台の重光武雄オーナー宅に野村克也を乗せた車が滑り込んでいくではないか。こんな事ってあり?肝を冷やしたものの、同日中に山内監督の就任発表は行われた。

 事の顛末を整理する。この年に南海の選手兼任監督から一選手としてロッテ入りした野村だがプレーヤーとしての衰えは隠しようもなく成績は上がらない。

 試合中にネット裏にやってくると記者たちにぼやく姿がしばしば見られた。選手としては限界でもポスト・金田の人選を進める球団としては次期監督の有力候補としてリストアップしていたのは間違いない。また、当時のロッテでは本社が球団とは別にベテラン記者や評論家を呼んでは意見を聴くのでそれぞれに自薦他薦の候補が乱立して混乱に拍車をかけていたのだ。山内監督で一本化していた松井球団社長らに対して、別のグループが野村擁立を図り、最後に重光オーナーに直談判したが不発に終わったのが真相である。

 84年には西鉄ライオンズの大エースだった稲尾和久を監督に招請する。この際「数年以内にロッテを福岡に移転させる」という条件で稲尾は就任したと言われている。だが、7年後に移転先に選んだのは千葉だった。今も昔もお家騒動の体質は変わらない。

文=荒川和夫(あらかわ・かずお)
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