本塁打0の中学時代から高校屈指のスラッガーに!
ここ数年、テレビの密着取材が入ることもあり、注目を集めるようになった12球団合同トライアウト。主に戦力外通告を受けた選手が生き残りを目指し、自らのプレーを披露する。2015年11月10日、静岡・草薙球場で行われた合同トライアウトには、投手33人、野手14人、計47人が参加。シート打撃形式で行われた。
そんななか、プロへの道をつないだひとりが、日本ハムを戦力外となった外野手・鵜久森淳志である。7打数2安打ながら、外野を強化したいヤクルトが獲得を表明。プロ12年目のシーズンを、新たなリーグ、新たなチームで迎えることになった。
鵜久森は1987年2月生まれ、愛媛県松山市出身。1986年生まれと同級生で、もうすぐ29歳になる。「えひめリトル」で硬式野球を始め、松山市立松山北中学校時代は、硬式クラブ「松山クラブ(松山坊ちゃんボーイズ)」に所属。当時の一番の悩みは「打球が飛ばないこと」。それが、進学した済美高校(愛媛)で大変身を遂げる。
高校球界の名将・上甲正典監督(故人)が率いていた済美高校。生前のインタビューによれば、上甲監督の鵜久森に対する第一印象は「本当にガリガリで、これが野球選手か? と思った」。中学時代の指導者は、「背が大きくて当たれば飛びます。ひょっとしたら育つかもしれません」と送り出したという。
中学時代は通算0本塁打だったのが、高校1年夏から変わり始める。1年生で4本、2年生で19本と積み重ねた本塁打は、高校3年間で通算46本。その裏にあったのは、練習の鬼として知られる上甲監督が「トレーニングもよくやったし、3年間、どの高校のどの選手よりもバットを振ったと思う」と褒めるほどの努力だった。
鵜久森淳志の名前が全国に知れ渡ったのは、2003年秋。済美高は初出場した明治神宮大会の初戦、ドラフト候補のダルビッシュ有(現・レンジャーズ)を打ち崩し、7対0のコールド勝ちを収めたのだ。そして、2004年春の甲子園。創部2年目の済美高は初出場初優勝。続く夏も初出場で準優勝。2年生エースの福井優也(現・広島)、強力打線の4番・鵜久森が、投打の柱だった。
春夏甲子園での5本塁打に加え、長身を持て余さない柔らかい打撃を評価する声は多かった。しかし、「右のスラッガーは育つのに時間がかかる」ともいう。2004年秋のドラフト、鵜久森が指名されたのは日本ハムの8巡目。ドラフト会議も終わる頃だった。
トライアウトから故郷で再生、プロ12年目の開花を誓う
プロ1年目は二軍で88試合に出場し、8本塁打、90三振。自分の持ち味をアピールしたともいえるが、同時に「プロの壁」を感じていたという。その壁は高く厚く、入団当時のフレーズ「将来の4番候補」から「将来の」が外れない。一軍最多出場は2011年の42試合。それ以外は年間20試合前後、打率は2割台前半といったところ。いつしか、選手名鑑には「勝負の年」「崖っぷち」といった言葉が並ぶようになった。
2015年は3試合に出場して2打数0安打。一軍出場ありで無安打だったのはプロ11年間で2度目。そんななかで受けた戦力外通告だった。
しかし、戦力外通告をした日本ハムは、鵜久森を完全に見捨てたわけではなかった。合同トライアウトを受けることを知ると、秋季練習への参加を許可。投手陣やコーチ陣が生きた球を投げ込み、ノックを打ってくれたという。来季は契約しない選手に対して、これ以上の思いやりはない。
万全の準備で臨んだトライアウトを経て、ヤクルトとの契約が成立。会見では「拾ってもらって感謝しています。チームに貢献できるように頑張るだけです」と、やや緊張の面持ちで話した。
トライアウトの5日後、11月15日からは、松山市で行われていたヤクルトの秋季キャンプに参加。1月からは「トリプルスリー」山田哲人らとともに、同じく松山市内で自主トレに取り組んでいる。キャンプ、自主トレともに故郷でというのは、何かの縁なのだろうか。鵜久森本人も、「松山で練習を始めることができて、すごくうれしい。チームになじんで、しっかり貢献していきたい」と決意を新たにしている。
ヤクルトはトライアウト後、オリックスを退団した坂口智隆も獲得した。タイプが違うとはいえ、同じ外野手。今季も厳しい戦いが続くだろう。それでも、同じく外野の一角を争う左のスラッガー・雄平が規定打席に到達したのは、プロ12年目(野手転向5年目)。今年の鵜久森と同じ年のことだった。甲子園を湧かせたスラッガーがプロで花開く可能性は、十分あると信じたい。
文=平田美穂(ひらた・みほ)