幼い頃から野球一筋! 中学時代、長野久義との“遭遇”も!?
2015年、リーグ4連覇を狙った巨人は2位に終わり、CSでも敗退。主役の座をヤクルトに奪われてシーズンを終えた。チーム防御率2.78はリーグ1位、チーム打率.243はリーグ最下位。数字上は、明らかな「投高打低」だった。
高橋由伸新監督の下、ベテランから若手への移行も課題とするなかで注目を集めているのが、2年目を迎える高校卒スラッガー・岡本和真である。
岡本は1996年6月生まれ、現在19歳。奈良県五條市出身で、8歳上の兄とのキャッチボールにより、幼い頃から野球に親しんだ。五條市立北宇智小学校1年生で、少年野球チーム「カインド」に入団し、4年生からは、4番・ピッチャー。五條市立五條東中学校時代は、硬式クラブ「橿原磯城シニア」でプレーした。
中学時代は投手も務めたが、ケガも多く、投げられない時期は、主に三塁を守っていた。2年生だった2010年、チームは硬式リーグの強豪が日本一を争う全日本中学野球選手権大会、通称「ジャイアンツカップ」に出場してベスト4進出。東京ドームで行われた開会式では、長野久義がサプライズで登場して始球式。その姿を見ていた少年が巨人軍の一員となり、長野と一緒にグアムで自主トレをすることになるとは、このとき、誰も思い描いていなかっただろう。
中学3年夏には、シニア各地区連盟の推薦選手で結成された選抜チームの主力として、全米選手権優勝に貢献。多くの高校から誘いがくるなか、岡本の心は決まっていた。生まれ育った五條市にある智弁学園高校。白地に朱の「智弁」ユニホームに、小さい頃から憧れていたという。
相思相愛で入学した智弁学園では、1年春からベンチ入り。秋から4番を務めた。天性の長打力が「強打の智弁」で開花し、高校通算73本塁打。主に三塁、一塁を守ったが、マウンドに立てば144キロの剛速球を披露。まさに、投打の柱となっていた。甲子園には3年生の2014年春、夏に出場。春は2回戦敗退も、1回戦で1試合2本塁打(大会最多タイ、史上19人目)。夏は1回戦で明徳義塾高校(高知)に敗れたが、相手エース・岸潤一郎(現・拓殖大)との対決は注目を集めた。なお、春夏甲子園でリリーフとして登板。最後の最後まで、投打の柱だった。
甲子園後に行われたU18アジア選手権日本代表では、4番を務めて準優勝に貢献。秋のドラフトでは、巨人が単独1位指名。代表でチームメートとなった高橋光成(前橋育英高→西武1位)、浅間大基(横浜高→日本ハム3位)、脇本直人(高崎健康福祉大高崎高→ロッテ7位)らとともに、念願のプロ入りを果たした。
松井秀喜以来の快挙! そして、シーズン後に迎えた大ブレーク
球団から与えられた背番号は38。これは、長嶋茂雄終身名誉監督の背番号「3」と、原辰徳監督(当時)の現役時代の「8」を合わせたものだ。「巨人のホットコーナーは任せた!」という期待に満ちたものである。
とはいえ、1年目のシーズンは二軍スタート。イースタンリーグで69試合に出場して、打率.258、本塁打1。6月には、ユニバーシアードに出場する大学日本代表と対戦するNPB選抜のメンバーに選出。7番・サードで出場し、1安打2三振という結果だった。前半戦は故障に見舞われるなどの事情もあったが、現在スターと呼ばれる選手の1年目と比べると、正直、それほどのインパクトはない。
一軍昇格は8月27日。翌28日にプロデビューを果たし、一軍出場17試合で、打率.214、1本塁打という結果。こちらも物足りないといえば物足りないが、巨人の高校卒新人が1年目のシーズンにホームランを放ったのは、あの松井秀喜以来、22年ぶりの快挙だった。少ないチャンスで4打点をあげるなど、期待値は高まる。そして、10月、みやざきフェニックスリーグで打率.444をマーク。続く台湾ウィンターリーグでは、打率.388、3本塁打、20打点。リーグ打点王、日本人選手のなかでの三冠王。シーズン終了後に大ブレークを迎えていたのだ。
12月に行われた契約更改では、200万円増の1400万円(推定)でサイン。「もっともっと練習して、結果を残さないといけないと思います」と決意を新たにした。
自主トレは、村田修一、長野久義、坂本勇人ら、レギュラー陣の仲間入りを許された。「一軍で活躍されている方々なので、いろいろ見たり聞いたりして学んでいきたいです」と意気込んでいた成果は、2月のキャンプで見られるだろう。
4番、サード、岡本――。背番号38が野球少年の憧れになるように、今年も着実に成長していく姿を見届けたい。
文=平田美穂(ひらた・みほ)