新天地で復活を目指す
13年前、そのルーキーの投球を見た多くのチーム関係者は「野球センスの塊」と絶賛したという。
02年ドラフトで東海大から自由獲得枠で巨人へ入団した久保裕也である。球団からいきなり、先日野球殿堂入りした平成の大エース斎藤雅樹の「背番号11」を託されたことからも、その期待の大きさが伺える。久保は同期の松坂世代・木佐貫洋とともに1年目から先発ローテーションの一角を任せられ7勝を挙げる活躍、順風満帆のプロ生活のスタートを切った。
2年目以降も融通の利く便利屋としてプルペンを支えたが、07年あたりから次第に登板機会を失い、このまま久保も終わりかと囁かれ始めたその時、一つの転機が訪れる。09年オフ、同期入団の木佐貫がオリックスにトレードされたのだ。もう若手ではなく中堅選手。自分もあとがない。久保自身も期するところがあったのだろう。翌10年、区切りの30歳となるシーズンで、久保はこれまでのうっぷんを晴らすような鬼気迫る活躍を見せ79試合に登板。翌11年シーズン途中からクローザーとして定着し、20セーブ、防御率1.17と驚異的な数字を残してみせた。
だがこの2年間で146試合に投げまくった代償は大きく、右股関節手術に続き、右肘靱帯再建手術を受け長期リハビリ生活に突入する。皮肉にも原巨人のピークとも言える12年のチーム五冠達成のシーズンに久保はひたすらリハビリに励んでいたわけだ。復帰は14年4月の中日戦。気が付けば、チーム生え抜き最年長投手になっていた。
全盛期のボールとは程遠い状態ながらも大量ビハインドや先発投手が故障時の緊急登板等、与えられた場所で黙々と投げ続ける背番号11。もちろん勝負所で登板する山口鉄也やマシソンの肉体的かつ精神的疲労は想像を絶するものだと思う。だけど、結果がすべてのプロ野球でセーブ数やホールド数が記録されない「勝負所じゃないところ」で投げ続けるのも結構しんどい仕事だろう。久保のようにセットアッパーやクローザーとして実績のある投手ならなおさらだ。
そして2015年は投手陣の急激な世代交代の波に飲まれ1軍登板なし。オフには巨人を自由契約となりDeNAへ入団。通算418試合登板のベテラン右腕は入団会見で「若い選手のいい見本となれるように頑張ります」と抱負を語った。
盟友・木佐貫洋は昨季限りで現役引退。多くの松坂世代がユニフォームを脱ぐ中、今年5月で36歳になる男は巨人時代の栄光の背番号11と決別し、新天地でゼロからのスタートを切る。
久保裕也のDeNAでの新背番号は「00」である。
文=中溝康隆(なかみぞ・やすたか)