「六大学のスター」→「阪神のスター」
“超変革”をスローガンに走りだした金本知憲新監督率いる阪神タイガース。開幕から「昨年とは違う」という雰囲気を醸し出しているが、中でも「1番・左翼」でスタメン出場を続けているルーキー・高山俊の活躍が目を見張る。
3月26日の中日戦では、プロ初打点となる先制打で初のお立ち台に。31日のヤクルト戦では、プロ初本塁打を含む4安打の活躍とその高い打撃センスを見せつけた。
高山といえば、明治大時代に同校の大先輩である高田繁氏が持っていた東京六大学リーグの通算安打記録を48年ぶりに更新。最終的には通算131安打まで記録を伸ばし、神宮を沸かせてみせた。
阪神の過去を振り返ってみると、東京六大学で活躍したバッターが入団し、中心選手になっているという歴史がある。
球団創成期を支えた2人の大打者
球団の創成期を引っ張ったのは、景浦将だった。松山商から立教大に進んだ景浦は1年生から試合に出場し、いきなり同年のシーズン優勝に貢献する。
その後も投打の中心選手として活躍した景浦は、大学を中退して阪神に入団。主に4番を任され、特に巨人のエース・沢村栄治とのライバル対決は、「職業野球」と呼ばれていた当時のプロ野球の中で大きな注目を集める対決であった。
戦後に入ると、“メガネをかけた強打者”こと別当薫が入団する。慶応大では1942年の春のリーグ戦で首位打者を獲得。1943年の10月に行われた学徒出陣前の「最後の早慶戦」では慶応大の「4番・中堅」で出場している。
終戦後に復学すると、主将を務めた1946年春のリーグ戦で戦後初優勝。その後、全大阪を経て阪神に入団した。
1年目の1948年から主軸を任され、「ミスター・タイガース」藤村富美男とともに“ダイナマイト打線”をけん引する。翌1949年には39本塁打を放つも、このシーズンオフにセ・パ2リーグ制となり、毎日(現ロッテ)へ移籍。そのため在籍期間はわずか2年と短かった。
伝説を残した“右の強打者”
1968年の秋、阪神がドラフト1位で指名したのは、法政大のスラッガー・田淵幸一だ。あの長嶋茂雄が持つ六大学通算本塁打記録・8本塁打を大きく上回る、22本塁打を記録。山本浩司(のちに浩二)、富田勝とともに「法政三羽ガラス」と呼ばれた。
巨人入りを熱望していた田淵だったが、阪神に入団した1年目から22本塁打を放ち、正捕手に定着。江夏豊との黄金バッテリーは今でも語り継がれている。
1975年には43本塁打で初の本塁打王を手にし、その美しい放物線は多くの阪神ファンを魅了した。ところが1978年のオフ、西武への交換トレードが発表。阪神を去ることになる。
その田淵が去った翌1979年秋、阪神は6球競合の末に早稲田大の岡田彰布を引き当てる。大学3年の秋には三冠王を獲得し、通算本塁打は田淵に次ぐ歴代2位(※当時)の20本塁打。通算打点81は、今なお六大学のリーグ記録だ。
大学時代に守っていたサードには掛布雅之がいたため、セカンドにコンバートされた岡田。それでも1年目から打率.290、18本塁打で新人王を獲得すると、その後も中心打者として活躍。21年ぶりの日本一となった1985年には、5番打者として35本塁打を放った。引退後には、2004年から5年間に渡って阪神の監督を任され、2005年にはリーグ優勝を果たした。
現チームのキャプテンも同じ流れを汲む
そして、その岡田が監督に就任した直後、自由獲得枠で入団したのが早稲田大の後輩・鳥谷敬だった。2年春には岡田同様に三冠王を獲得し、下級生の頃から将来のスター候補として注目を集める。大学3年春から4年秋にかけてはリーグ戦4連覇を達成し、その偉業に中心選手として貢献した。
プロ入り2年目の2005年から昨シーズンまで、11年間休むことなく全試合出場を続け、今年の開幕前の段階で連続試合出場は1609試合に到達。不動のショートストップとしてチームを引っ張っている。
いまから新人王の筆頭候補として名前が挙がる高山は、偉大なる先達の系譜にその名を連ねることができるか。高山のこれからの未来がたのしみだ。