交流戦が終了し、リーグ戦が再開した。各球団、まもなくシーズンの折り返し地点を迎える。今シーズン序盤は、「新監督」の話題で盛り上がった。巨人の高橋由伸、阪神の金本知憲、DeNAのアレックス・ラミレスと、現役時代にチームの中心選手として活躍し、大いにファンを沸かせたスター選手だ。
前述の3監督の他にも、現在の12球団の監督の顔ぶれをみると、現役時代に幾度となくファンを沸かせた実績のある監督が多い。12球団の監督の選手時代の出場試合数と通算安打数(投手の場合は勝利数)をまとめてみる。
<セ・リーグ>
ヤクルト 真中満 1368試合 1122安打
巨人 高橋由伸 1819試合 1753安打
広島 緒方孝市 1808試合 1506安打
阪神 金本知憲 2578試合 2539安打
中日 谷繁元信 3021試合 2108安打
DeNA ラミレス 1744試合 2017安打
<パ・リーグ>
ソフトバンク 工藤公康 635試合 224勝
日本ハム 栗山英樹 494試合 336安打
ロッテ 伊東勤 2379試合 1738安打
西武 田辺徳雄 1229試合 926安打
オリックス 福良淳一 1240試合 1116安打
楽天 梨田昌孝 1323試合 874安打
他の監督に比べ、選手としての実績に寂しい印象を抱かざるを得ない監督が一人いる。日本ハムの栗山英樹監督である。
栗山監督は創価高校時代、1年時からベンチ入り、3年時には主将を務めた。エースとして活躍するも、甲子園出場を果たすことはできなかった。卒業後は、東京学芸大学に教員を目指して進学。野球部に所属をしつつ、教員免許取得のため学業にも励んだ。2年春までは投手として活躍したが、右ヒジの故障もあり、投手から野手に転向した。大学での成績は、投手として25勝8敗、打者としてリーグ史上3位の打率.389という数字を残した。
教員への夢よりも、栗山の中で「上で野球をやりたい」という思いが強くなったことで、プロの入団テストを受ける。その結果、ヤクルトスワローズにドラフト外での入団を果たした。
プロ入り後は、1年目に早くも遊撃手としてプロデビューを果たすが、プロの厚い壁にぶつかり、出場はわずかに2試合に留まった。2年目は、武器である俊足を活かすために、外野手、スイッチヒッターへの転向を試み、初安打も記録するなど、飛躍が期待されたが、めまいや立ちくらみなどの症状が出る原因不明のメニエール病を発症し、思うようにプレーができない日々が続いた。
治療に専念する期間を設けるなど、完全復帰に向けて必死にもがき、6年目には、始めて規定打席に達して、ゴールデングラブ賞も受賞したが、翌年に就任した野村克也監督の方針により、レギュラーの座が外れることとなる。そして、90年に故障やメニエール病への不安から7年間という短いプロ野球生活に栗山は幕を下ろした。
現役引退後はプロ野球解説者や大学の講師を務めるなど幅広く活躍し、11年オフに日本ハムの監督に就任。就任1年目の12年に見事優勝を飾った。あれから4年。栗山も、監督として5年目のシーズンを戦っている。
選手としては、大成できなかったかもしれない。しかし大谷翔平の二刀流挑戦に誰よりも理解がある栗山の原点は、自らの大学時代の経験による所もあるのかもしれない。また、西川遥輝や近藤健介など、臨機応変に守備位置を兼務させる独特の采配も、プロの壁に苦しんだ入団当初の経験が活きている。
いずれにしても、監督栗山は、短い野球人生のなかで得たものを、選手に伝え、選手の能力を引き出す才能を惜しみなく発揮している。栗山の野球センスが輝く場所は、ここにあるのかもしれない。
前述の3監督の他にも、現在の12球団の監督の顔ぶれをみると、現役時代に幾度となくファンを沸かせた実績のある監督が多い。12球団の監督の選手時代の出場試合数と通算安打数(投手の場合は勝利数)をまとめてみる。
<セ・リーグ>
広島 緒方孝市 1808試合 1506安打
阪神 金本知憲 2578試合 2539安打
中日 谷繁元信 3021試合 2108安打
DeNA ラミレス 1744試合 2017安打
<パ・リーグ>
ソフトバンク 工藤公康 635試合 224勝
日本ハム 栗山英樹 494試合 336安打
ロッテ 伊東勤 2379試合 1738安打
西武 田辺徳雄 1229試合 926安打
オリックス 福良淳一 1240試合 1116安打
楽天 梨田昌孝 1323試合 874安打
他の監督に比べ、選手としての実績に寂しい印象を抱かざるを得ない監督が一人いる。日本ハムの栗山英樹監督である。
栗山監督は創価高校時代、1年時からベンチ入り、3年時には主将を務めた。エースとして活躍するも、甲子園出場を果たすことはできなかった。卒業後は、東京学芸大学に教員を目指して進学。野球部に所属をしつつ、教員免許取得のため学業にも励んだ。2年春までは投手として活躍したが、右ヒジの故障もあり、投手から野手に転向した。大学での成績は、投手として25勝8敗、打者としてリーグ史上3位の打率.389という数字を残した。
教員への夢よりも、栗山の中で「上で野球をやりたい」という思いが強くなったことで、プロの入団テストを受ける。その結果、ヤクルトスワローズにドラフト外での入団を果たした。
プロ入り後は、1年目に早くも遊撃手としてプロデビューを果たすが、プロの厚い壁にぶつかり、出場はわずかに2試合に留まった。2年目は、武器である俊足を活かすために、外野手、スイッチヒッターへの転向を試み、初安打も記録するなど、飛躍が期待されたが、めまいや立ちくらみなどの症状が出る原因不明のメニエール病を発症し、思うようにプレーができない日々が続いた。
治療に専念する期間を設けるなど、完全復帰に向けて必死にもがき、6年目には、始めて規定打席に達して、ゴールデングラブ賞も受賞したが、翌年に就任した野村克也監督の方針により、レギュラーの座が外れることとなる。そして、90年に故障やメニエール病への不安から7年間という短いプロ野球生活に栗山は幕を下ろした。
現役引退後はプロ野球解説者や大学の講師を務めるなど幅広く活躍し、11年オフに日本ハムの監督に就任。就任1年目の12年に見事優勝を飾った。あれから4年。栗山も、監督として5年目のシーズンを戦っている。
選手としては、大成できなかったかもしれない。しかし大谷翔平の二刀流挑戦に誰よりも理解がある栗山の原点は、自らの大学時代の経験による所もあるのかもしれない。また、西川遥輝や近藤健介など、臨機応変に守備位置を兼務させる独特の采配も、プロの壁に苦しんだ入団当初の経験が活きている。
いずれにしても、監督栗山は、短い野球人生のなかで得たものを、選手に伝え、選手の能力を引き出す才能を惜しみなく発揮している。栗山の野球センスが輝く場所は、ここにあるのかもしれない。