80~90年代のプロ野球を語り尽くそう -短期間で本塁打量産した外人ランキング-
新年が明けた直後のプロ野球界は、さすがにネタになるニュースが少ない。そこで、昨シーズンのタイトルホルダーをざっと追いながらキーワードを探していたところ、中村剛也(西武)とホームラン王のタイトルを分けあったメヒア(西武)に目が止まった。
昨年5月5日に途中入団したメヒアはメジャー経験もなく、どこの馬の骨かもわからない状態で同月15日に日本でのデビューを果たした。だが、初打席でいきなりホームランを放つと34本塁打を放って途中入団の外国人選手として初となるタイトルを獲得したのだ。獲得した西武サイドも嬉しい誤算だっただろうが、80年代にも似たようなケースがいくつか存在した。
今回はそんな「短期間にホームランを量産した外国人選手」をテーマにランキング化してみることに。ぜひ、当時に想いを馳せてもらいたい。
日本中が大騒ぎとなった赤鬼・ホーナー旋風
まずは、87年に強烈なムーブメントを起こした選手を1位とした。
その名はボブ・ホーナー(ヤクルト)。アメリカでは極めて希少なマイナー経験のないエリートメジャーリーガーとして活躍していたが、86年オフはフリーエージェント権行使による年俸の高騰により契約する球団が現れず、翌年の4月半ばにやむなく(?)ヤクルトと契約して来日した。「現役バリバリのメジャーの主砲がヤクルトに入団する」というニュースが流れた時点で世の中は早くもざわついたが、5月5日の阪神戦で初出場するといきなりホームランを放ち、翌日には1試合で3発の仰天デビュー! 世の中の話題はホーナー一色となった。
太めの体の割にバットをコンパクトに振るスタイルのせいか、本人は広角に「アジャストしたつもり」の打球が、当時の狭い日本の球場ではポンポンスタンドインしてしまうのだから手に負えない。そのホーナー、その後しばらくは間を置かずにホームランを打ち続け、騒ぎはますますエスカレート。「ホーナー旋風」と言われる大きなブームが巻き起こった。しかし、オールスターを腰痛で辞退した頃から、慣れない環境でのプレーによる疲労と、プライベートも何もあったもんじゃない騒がれ方や、メジャーとは違う日本式のやり方などに本人がすっかり参ってしまった。
シーズン後半は徐々に不平不満を漏らすようになり、この年93試合に出場して打率.327、31本塁打と、短期間で申し分ない成績を残しながら、翌年、メジャー球団からオファーが来るとあっさりアメリカに舞い戻ってしまった。
そのときに発した「地球のウラ側にもうひとつの違う野球(ベースボール)があった」という捨てセリフは、後に同じタイトルで書籍となっている。結局、メジャー復帰後は故障もあって活躍せぬまま引退。もう少し日本でプレーしていれば、もっと稼げただろうに……。
近鉄移籍で覚醒したブライアント フィルダー、呂明賜の短期爆発ぶりも捨てがたい
続いて第2位は、近鉄で狂ったようにホームランを打ちまくったラルフ・ブライアントとした。ホーナー旋風の翌年となる88年5月に中日に入団したブライアントは、郭源治とゲーリーの2人の外国人選手が1軍で活躍していたため、当時の外国人枠(2名)の関係もあって2軍でプレーしていた。
だが、近鉄で主軸として活躍していたデービスが大麻所持によって逮捕・退団となり、急遽、近鉄が中日に打診して金銭トレードが成立。移籍後のブライアントは水を得た魚のようにホームランを量産し、この年、なんと74試合で34本というハイペースでホームランを放った。今も語り継がれる優勝をかけたロッテ対近鉄戦ダブルヘッダー「10.19」の第2戦でも、一時は勝ち越しとなるホームランを打っている。その後の活躍については、多くのファンがご存知だろう。
そして3位だが、甲乙つけがたい2人を同順位とした。一人はセシル・フィルダー(阪神)。途中入団ではないが、89年に106試合で38本塁打をかっとばし、その実績により、翌年、デトロイト・タイガースに入団。51本塁打を放ってメジャーの本塁打王になってしまった! 実績のない選手が日本を経てメジャーに「逆輸入」された第1号である。
また、もう一人は呂明賜(巨人)。この選手もブライアント同様、88年に入団したもののクロマティとガリクソンがいて1軍にいて上がれずにいたが、クロマティの骨折・離脱により6月に昇格。日本人選手にはいない体を大きく回すスイングから豪快な本塁打を連発し、最初の10試合で7本のホームランを放った。残念ながら、その後厳しい内角攻めにあって打撃不振となり、復調することなく91年に退団したが、当時のインパクトは絶大で、「台湾ブーム」として大いに盛り上がった。それを讃えてランキング入賞としたい。
文=キビタキビオ(きびた・きびお)