「闘将」とは星野仙一の代名詞だ。現役時代は巨人キラーとして名を馳せ、中日、阪神監督時代も球界の盟主に牙をむいた。もっとも、長く星野を見て取材して行くと違った顔も見えてくる。生身の人間・星野に少しばかり迫ってみる。
かつてのナゴヤ球場。記者席は両軍ベンチと近いところにあり試合中にも様々な様子が垣間見えた。ドスンと椅子を蹴りあげる。ものすごい形相で相手チームをにらむ。
これは現実に目撃していないが選手にも容赦なくビンタが飛ぶ。時には鉄拳まで振りおろされた、というのは複数の証言者がいるから間違いないだろう。
最も血祭り?にあげられたのは当時伸び盛りの捕手・中村武志。それでも中村はずっとこの指揮官を慕い、現役引退後もコーチとして重用されている。
強面だけでなく、面倒見のいい親分肌だから星野の周りには人材が集まり成績も残せた。その星野が終生の師と仰ぐのが明大時代の監督・島岡吉郎(故人)だ。もともと、応援団出身の島岡は野球経験がない。
しかし、その分戦う姿勢、心構えを熱心に説いた。「魂を込めて命がけで物事にあたれ」「誠を持て」いわゆる人間力の野球だ。プロであるならさらに魂を込めて命がけでプレーするのは当たり前、少しでも気の緩みが見えたら鉄拳が飛んだわけだ。
もっとも、こうした叱られ役は限られており、同時にチーム全体の士気を鼓舞するのが本当の狙い。そうした意味では星野は島岡譲りの政治が出来る男だった。
もうひとつ星野らしいエピソードがある。現役時代、特に巨人戦では鬼の形相で投げまくったエースだが、途中降板を命じられるとマウンド上でグラブを投げ捨てて悔しがった。
ところが後に監督だった近藤貞雄は舞台裏を明かす。「あれは演技、降板の際はサインがあって納得づくだった」また、監督として6度の退場歴を持つ闘将だが、現役時代の審判への激しい抗議の多くは両者承知のうえでファンを盛り上げるためのパフォーマンスだったという証言まである。なかなかの役者である。
そんな星野にとって大きな挫折を味わったのが2008年の北京五輪の惨敗だ。「金メダル以外はいらない」とタンカを切って背水の陣を敷いたものの結果はメダルすら獲得できない惨憺たるもの。特に上位3チームには5戦全敗では言い訳もできない。
この「北京」は星野にいくつかの課題も突きつけた。監督として組閣する際に東京六大学からの盟友である山本浩二、田淵幸一をコーチに招いたが結果が伴わなかったこともあり「お友達内閣」と批判される。
さらに球界全体に目をやると高齢化するONに代わりこれからのリーダー選びという観点からも注目を集めた。だが星野組の敗退は世代交代のチャンスすら大きく後退させてしまったのだ。
一昨年の楽天日本一の歓喜と昨年の途中休養をはさんで最下位に沈んだ末の退任。最後は椎間板ヘルニアと黄色靭帯骨化症の難病で監督生活の幕を閉じた。
だが、闘将にして、政治が出来て、セ・パ両リーグばかりかメジャーにまで幅広いネットワークを有する野球人はそうそういないのもまた事実。
楽天のシニアアドバイザーだけで御隠居を決め込む人でもない。まずは病の克服が先決だかその先に目指すものははたしてどんなものになるのだろう?
まだまだ男・星野仙一から目を離せない。(敬称略)
文=荒川和夫(あらかわ・かずお)