白球つれづれ~第22回・広島~
智将・古葉竹識が人目も憚らず泣いた。山本浩二も衣笠祥雄も外木場義郎も歓喜に身を任せ勝利に酔いしれた。興奮したファンがグラウンドになだれ込む。みんなが声にならない声を上げて泣いていた。
場所は敵地の後楽園球場(現東京ドーム)なのにそこはカープ一色。大歓声とともにナインの手で古葉の体が宙に舞った。1975年10月15日。「弱小球団」のレッテルを貼られ続けてきた広島にとって球団創設から26年、実に3397試合目で初めて手にしたセ・リーグの覇権だった。
それから5日後に地元に凱旋するとその熱狂はさらに高まっていった。当時の広島市の人口の約半数にあたる30万人が平和大通りで行われた優勝パレードに駆けつけて酔いしれた。
その初優勝から数えて41年。山本浩二監督時代の91年を最後に優勝から遠ざかっていた広島東洋カープに今度は25年ぶりの歓喜の時がやってこようとしている。
経済効果は278億円?!
8月23日から行われた2位・巨人との3連戦に勝ち越してマジック点灯。もう行く手をさえぎる者はいない。広島市内では優勝のカウントダウンボードや必勝の垂れ幕が掲げられてあとは歓喜の時を待つばかりだ。
このほど地元の中国電力エネルギア総合研究所が発表した経済効果は278億円。昨年、黒田博樹がメジャーから「男気復帰」を果たし、カープ女子も社会的な関心を呼ぶなど観客動員は200万人越えを記録。その勢いに今季はクライマックスから日本シリーズ進出まで見越せばさらに30億円増を期待できるという。
「赤ヘル」の所以
今でこそ「赤ヘル」イコール広島が定着したが、この赤ヘルを最初に着用したのが初優勝時の75年のことだった。この年に初の外人監督として就任したジョー・ルーツは様々なチーム改革に着手する。グラウンドでは闘志を前面に出すファイティングスピリットを選手に要求。さらに「野球に対する情熱を形にしよう」と帽子、ヘルメットをこれまでの青から燃える赤に変更した。もっとも当時の記録を調べると「小学校の運動会みたい」と恥ずかしがった何人かの選手はキャンプ初日には無帽で現れたという。チームカラーに定着したのも初優勝のおかげだったのかもしれない。
そんなルーツ率いる赤ヘル軍団の栄光への道のりは波乱万丈のものだった。
開幕直後の4月末の阪神戦。ストライク、ボールの判定に以前から不満を抱えていた指揮官は8回、佐伯和司の投じた1球がボールと判定されると猛抗議。さらに審判の胸を小突き退場を宣告されてもホームプレート上で5分10分と動かない。
このままでは放棄試合かという重大局面に代表の重松良典が懸命の説得で事なきを得たが怒りの収まらないルーツは3日後に退団。コーチの野崎泰一の代行をはさんで古葉竹識が監督に就任したのは5月3日のことだった。結果としてはこれが勝負の吉と出た。
進撃と重圧と
ルーツの意識改革に古葉の緻密な野球が融合してチームは勢いに乗っていく。一番の大下剛史から始まり三村敏之、G・ホプキンス、山本浩二、衣笠祥雄、R・シェーン、水谷実雄、水沼四郎と並ぶオーダーは機動力も一発の魅力も秘めており、外木場義郎、佐伯和司、池谷公二郎の三本柱を中心とした投手陣も抜群の安定感で白星を積み重ねた。それでも夏過ぎから初めての優勝という重圧がナインを襲った。
「その頃から、みんなガチガチになったな。広島市内にも毎晩飲みに行っていたら何を言われるかわからんからそうそう出歩けないし」と山本浩二が当時を回想すれば、衣笠祥雄は自身の著書で「もし優勝が出来なかったら広島から夜逃げするしかない」ところまで追い込まれた心境を語っている。
終戦からまもない1950年に平和と復興のシンボルとして誕生した球団だが、いきなり給料遅配の財政難に陥り2年目には早くも下関に本拠を構えていた大洋(現DeNAの前身)との合併までが議論された。親会社を持たない市民球団だけに経営は綱渡りが続き約10年間は市民から浄財を募る「樽募金」でしのいだ。それだけに市民と選手の関係は濃密で熱い。
歓喜のXデーは……!?
12球団で最も優勝から遠ざかっているチームは今季、エース・前田健太のメジャー移籍などでさらなる戦力ダウンが予想された。だが蓋を開けてみれば黒田博樹、新井貴浩両ベテランの活躍に「キク・マル」の復活や鈴木誠也の神ってる働きなどで大躍進。久しぶりのⅤだけに喜びも大きいものになるだろう。
さて、注目の胴上げXデーは9月10、11日の東京ドーム巨人戦なら41年前と同じ舞台。地元胴上げなら同15日のこれも巨人戦と読んだがどうだろう?ちなみに広島での指定席は最終戦まで完売とか。喜びを共有したいファンのぜいたくな悩みは続きそうだ。
文=荒川和夫(あらかわかずお)