すべては“24年前”からはじまった...?
1992年秋――。その後の阪神タイガースの運命を左右する出来事があった。松井秀喜がいた、あのドラフト会議だ。
ダイエー、中日、巨人、阪神の4球団が競合した結果、長嶋巨人が交渉権を獲得した。その後はご存知の通り、松井はスター選手への階段を駆け上がり、引退するまで日米通算507本ものアーチを描いた。
当時を振り返ってみると、松井は意中の球団として阪神の名前を挙げていたこともあった。長嶋監督のガッツポーズを見た瞬間の中村勝広監督(当時)の無念の表情は、いまだに忘れることができない。
松井は2002年まで10年間に渡って巨人でプレー。巨人の一員として、4度のリーグ優勝を味わった。一方、松井を逃した阪神は1993年から2002年までの10年間、一度もAクラスに入ることはなかった。
松井を獲得した巨人と、逃した阪神…。あの日のくじ引きが、10年間に及ぶ両チームの命運を分けたと言うと言い過ぎだろうか。
「和製大砲」の不在
時は流れ2016年。阪神はいまだに和製スラッガーが育たずにいる。
阪神から本塁打王が生まれたのは1986年のバースが最後になるが、それが日本人打者となると1984年の掛布雅之までさかのぼらなくてはならない。ポスト掛布と呼ばれた選手もいたが、期待以上の成績を残した選手は皆無だった。
藤村富美男に始まり、田淵幸一、掛布雅之と続いた和製スラッガーの系譜は、1980年代に止まったまま。時間だけが過ぎているような状態がつづく。
1990年代には新庄剛志や桧山進次郎、2000年以降も浜中治や桜井広大らが“候補”として大きな期待をかけられたが、ここ数年はそう呼ばれる選手すらいないのが現状だ。
指揮官に課せられた課題
今季もチームで最も本塁打が多かったのは、助っ人のゴメスで22本。次いで福留孝介と原口文仁が11本で並ぶ。以下、高山俊が8本、鳥谷敬と江越大賀が7本。
阪神が最後にリーグ優勝を果たした2005年を思い返してみると、金本知憲が40本、今岡誠が29本をマークするなど、日本人強打者の存在があった。再び阪神に和製スラッガーは生まれる日は来るのだろうか…。
甲子園球場にラッキーゾーンを再設置するという案も、ファンの間ではよく語られる。2015年にソフトバンクが本拠地にホームランテラスを設置したことで、柳田悠岐が球界を代表するスラッガーに成長したのはいいヒントになるのではないだろうか。
さらに、1年後のドラフトには清宮幸太郎が登場する。1年の夏から甲子園で活躍を見せており、競合覚悟で指名すべきだろう。
金本監督に与えられた宿題は2つ。チームの底上げを図り、常勝チームを築くこと。そして和製スラッガーの育成だ。元ミスタータイガースの掛布雅之二軍監督とのタッグでそれを現実のものにできるだろうか。
文=八木遊(やぎ・ゆう)