18日に開幕した第96回選抜高校野球では、出場32校のほかに、補欠校として21世紀枠の2校を含む20校が名を連ねている。これまでに補欠校が繰り上げ出場したのは13例。大会直前に代替出場が決まり、調整不足で本番に臨むため、13校中9校までが初戦で敗退する一方、10年に1度あるかないかのチャンスを生かし、大健闘したチームも存在する。
大会前日に出場が決まり、あわや優勝という快進撃をはたしたのが、2022年の近江だ。
2日目の第2試合で長崎日大と対戦する予定だった京都国際が、大会前のPCR検査で13人のコロナ陽性者が確認され、出場辞退したことから、近畿地区の補欠校1位として代替出場が決まった。
だが、甲子園出場を実感する間もなく、試合は3日後に迫っていた。宿舎を手配する時間的余裕もなく、当日は試合開始5時間前に彦根市の同校をバスで出発。エースで主将の山田陽翔(現・西武)と二塁手の津田基は、途中の高速道路サービスエリアで合流するという慌ただしさだった。
「京都国際さんの分も頑張ろう」(多賀章仁監督)と必勝を期したチームは、初戦の長崎日大戦では、0‐2とリードされた9回に2本のタイムリーで執念の同点。そして、タイブレークの延長13回、4番・山田の左前タイムリーなどで4点を挙げ、見事勝利した。
2回戦も聖光学院戦に7‐2と快勝し、準々決勝では前年秋の近畿大会で敗れた金光大阪に6-1と雪辱。さらに準決勝でも2-2の延長11回、大橋大翔のサヨナラ3ランで浦和学院を下し、あれよあれよという間に決勝進出をはたした。補欠校から繰り上げ出場したチームでは、もちろん史上初の快挙だ。
決勝の大阪桐蔭戦では、準決勝までの4試合42イニングを1人で投げ抜いた山田が3回途中4失点と力尽き、1‐18と大敗。補欠校から県勢初の全国制覇の夢は消えたが、多賀監督は「代替出場でここまで来れるとは思っていなかった」とナインの健闘をたたえた。
近江の4勝に次ぐ2勝を記録したのが、1992年の育英だ。
前年秋の近畿大会では、準々決勝で安達智次郎(元阪神)の村野工に0-2で敗退。その後、準優勝校・上宮の不祥事による推薦辞退で空いた1枠も、初戦敗退ながら神戸弘陵と延長13回を戦った岡島秀樹(元巨人など)の東山が射止め、兵庫県3位校の育英は次点に泣いた。
ところが、出場校決定5日後の2月6日、神戸弘陵が部員の集団喫煙で出場を辞退し、補欠校1位・育英の繰り上げ出場が決まる。大会まで1ヵ月半調整期間があったのも追い風となった。
1回戦の駒大岩見沢戦では、初回に安田聖寛の先制ランニングホームランで主導権を握ると、2回以降も着実に加点。左腕エース・森山恵二もコーナーを丁寧に突いて、大会トップのチーム打率.377を誇る“ヒグマ打線”を散発の3安打に抑え、8-0と大勝した。
2回戦の広陵戦では、3回に死球を足場に暴投、犠打で走者を三塁に進めたあと、大村直之(元近鉄など)の遊撃内野安打でシブく先制。8回には敵失に乗じて1点を加え、9回にも森山の2点タイムリー二塁打でダメを押した。森山は投げても緩急自在の投球で、2年連続Vを狙う広陵を完封。投打にわたって26年ぶり8強入りの立役者になった。
準々決勝の浦和学院戦では、雨でぬかるんだグラウンドで守備が乱れ、2‐4で敗れたものの、大村、安田ら繰り上げ出場の甲子園で大きな経験値を得た下級生たちは、翌93年夏、同校初の全国制覇を成し遂げている。
初戦敗退ながら、優勝校を相手に大健闘したのが、1967年の倉敷工だ。
前年秋の中国大会で準優勝し、センバツは当確と思われたが、決勝で尾道商に1‐6で敗れたことがマイナス材料になり、準決勝で尾道商に3‐4と善戦した津山商が逆転選出。まさかの落選にナインは涙にくれた。
ところが、大会直前の3月19日に津山商が応援団員の暴行事件で出場辞退。翌20日、倉敷工の代替出場が決まる。大会開幕までわずか9日。初戦の相手は好投手・吉良修一(元阪神)を擁する優勝候補・津久見だった。
さすがに準備不足のハンデは否めず、2ランなどで3点を先行されたが、終盤にお家芸の機動力野球を見せる。7回二死一、三塁のチャンスに鮮やかな重盗で1点を返したあと、山口見一の中前タイムリーで1点差に。
さらに8、9回と連続で一死二塁のチャンスを作りながら、あと一打が出ず、2‐3と惜敗したが、小沢馨監督は「大観衆を前に甲子園で2時間の“練習”ができたのは、得がたい経験だ」と敗れて悔いなしだった。
倉敷工を下した津久見は、2回戦以降も接戦を制し、吉良も決勝までの4試合で54奪三振を記録。センバツ初出場初Vを達成している。
文=久保田龍雄(くぼた・たつお)
「京都国際さんの分も頑張ろう」
大会前日に出場が決まり、あわや優勝という快進撃をはたしたのが、2022年の近江だ。
2日目の第2試合で長崎日大と対戦する予定だった京都国際が、大会前のPCR検査で13人のコロナ陽性者が確認され、出場辞退したことから、近畿地区の補欠校1位として代替出場が決まった。
だが、甲子園出場を実感する間もなく、試合は3日後に迫っていた。宿舎を手配する時間的余裕もなく、当日は試合開始5時間前に彦根市の同校をバスで出発。エースで主将の山田陽翔(現・西武)と二塁手の津田基は、途中の高速道路サービスエリアで合流するという慌ただしさだった。
「京都国際さんの分も頑張ろう」(多賀章仁監督)と必勝を期したチームは、初戦の長崎日大戦では、0‐2とリードされた9回に2本のタイムリーで執念の同点。そして、タイブレークの延長13回、4番・山田の左前タイムリーなどで4点を挙げ、見事勝利した。
2回戦も聖光学院戦に7‐2と快勝し、準々決勝では前年秋の近畿大会で敗れた金光大阪に6-1と雪辱。さらに準決勝でも2-2の延長11回、大橋大翔のサヨナラ3ランで浦和学院を下し、あれよあれよという間に決勝進出をはたした。補欠校から繰り上げ出場したチームでは、もちろん史上初の快挙だ。
決勝の大阪桐蔭戦では、準決勝までの4試合42イニングを1人で投げ抜いた山田が3回途中4失点と力尽き、1‐18と大敗。補欠校から県勢初の全国制覇の夢は消えたが、多賀監督は「代替出場でここまで来れるとは思っていなかった」とナインの健闘をたたえた。
“ヒグマ打線”を完封
近江の4勝に次ぐ2勝を記録したのが、1992年の育英だ。
前年秋の近畿大会では、準々決勝で安達智次郎(元阪神)の村野工に0-2で敗退。その後、準優勝校・上宮の不祥事による推薦辞退で空いた1枠も、初戦敗退ながら神戸弘陵と延長13回を戦った岡島秀樹(元巨人など)の東山が射止め、兵庫県3位校の育英は次点に泣いた。
ところが、出場校決定5日後の2月6日、神戸弘陵が部員の集団喫煙で出場を辞退し、補欠校1位・育英の繰り上げ出場が決まる。大会まで1ヵ月半調整期間があったのも追い風となった。
1回戦の駒大岩見沢戦では、初回に安田聖寛の先制ランニングホームランで主導権を握ると、2回以降も着実に加点。左腕エース・森山恵二もコーナーを丁寧に突いて、大会トップのチーム打率.377を誇る“ヒグマ打線”を散発の3安打に抑え、8-0と大勝した。
2回戦の広陵戦では、3回に死球を足場に暴投、犠打で走者を三塁に進めたあと、大村直之(元近鉄など)の遊撃内野安打でシブく先制。8回には敵失に乗じて1点を加え、9回にも森山の2点タイムリー二塁打でダメを押した。森山は投げても緩急自在の投球で、2年連続Vを狙う広陵を完封。投打にわたって26年ぶり8強入りの立役者になった。
準々決勝の浦和学院戦では、雨でぬかるんだグラウンドで守備が乱れ、2‐4で敗れたものの、大村、安田ら繰り上げ出場の甲子園で大きな経験値を得た下級生たちは、翌93年夏、同校初の全国制覇を成し遂げている。
「甲子園で2時間の“練習”ができたのは、得がたい経験だ」
初戦敗退ながら、優勝校を相手に大健闘したのが、1967年の倉敷工だ。
前年秋の中国大会で準優勝し、センバツは当確と思われたが、決勝で尾道商に1‐6で敗れたことがマイナス材料になり、準決勝で尾道商に3‐4と善戦した津山商が逆転選出。まさかの落選にナインは涙にくれた。
ところが、大会直前の3月19日に津山商が応援団員の暴行事件で出場辞退。翌20日、倉敷工の代替出場が決まる。大会開幕までわずか9日。初戦の相手は好投手・吉良修一(元阪神)を擁する優勝候補・津久見だった。
さすがに準備不足のハンデは否めず、2ランなどで3点を先行されたが、終盤にお家芸の機動力野球を見せる。7回二死一、三塁のチャンスに鮮やかな重盗で1点を返したあと、山口見一の中前タイムリーで1点差に。
さらに8、9回と連続で一死二塁のチャンスを作りながら、あと一打が出ず、2‐3と惜敗したが、小沢馨監督は「大観衆を前に甲子園で2時間の“練習”ができたのは、得がたい経験だ」と敗れて悔いなしだった。
倉敷工を下した津久見は、2回戦以降も接戦を制し、吉良も決勝までの4試合で54奪三振を記録。センバツ初出場初Vを達成している。
文=久保田龍雄(くぼた・たつお)