コラム 2018.12.12. 18:00

インドネシアで野球の「恩」を返す日本人

無断転載禁止
インドネシアでの野球振興に尽力している野中さん

世界の野球見聞録~インドネシア~


「僕はね。自分の中の空白を、いま埋めているんです」

 インドネシア・ジャカルタ。テニスのスタジアムを改造したという野球場で、野中寿人(かずと)さんは、話し始めた。インドネシア独特のバティックのシャツを着た長髪の姿は、野球の指導者というよりは、まさに本業の実業家のそれであった。若かりし頃は六本木を闊歩し、のちマニラでビジネス界の裏街道を走ってきたという経歴も少々いかついその風貌に表れているのだろう。

 彼は長らくインドネシアで野球の指導をし、延べ7年間にわたって代表監督を務めてきた。本来ならば、今年8月に行われたアジア大会でも代表チームを率いて、侍ジャパン社会人代表と相まみえるはずだったが、「最終的にはインドネシアの野球はインドネシア人に委ねないといけない」という自身の信念から、後進に指揮を譲り、大会中はネット裏からゲームを見つめていた。


波乱万丈の人生


 かつては将来を嘱望された球児だった。名門日大三高の捕手として甲子園の舞台に立ち、プロのスカウトの注目を集めた。プロ球団からの誘いを断って、進学の道を選ぶものの、大人の事情も絡み、希望していた大学には進めず、系列の日大に進学。それが、その後の野球人生を大きく変える。入部後、秋のシーズンが始まる頃には彼の姿はグラウンドから消えていた。

「幽霊部員です」と彼は笑うが、名門大学で一度は出奔しながら、3年の秋には復帰できたというから、そのポテンシャルは余程高かったのだろう。しかし、伸び盛りの大学生活の大半を夜の世界で過ごしていた選手に、プロ球団はもはや興味を示すことはなかった。

卒業後に勤めた会社も長続きはせず、気がつけばフィリピンのマニラに流れ着いていた。日本で貯めた決して多くはない資金でできるビジネスを探した結果、繊維製品を扱うことに。これが当たり、4年で一財産を築くが、ビジネスパートナーに騙され、一夜にして一文無しになってしまう。

 失意のうちに帰国した後は、再び夜の世界に紛れ込み、それこそあまり表立って言えないようなビジネスにも手を出し、生活がひと段落ついた2001年、今度はインドネシアのバリ島に移住し、ここで結婚。そういう中で、彼は野球に再会した。


インドネシア野球の伝道師に


 バリ島と言えば、日本人にもお馴染みのリゾート地。元メジャーリーガーの新庄剛志氏がここで暮らしていたように、日本人の移住者も多い。彼らは日本人会を組織し、軟式野球のチームを作っていたが、そこで現地の子どもによるリトルリーグの指導を野中さんは依頼されることになる。

その依頼を引き受けたところ、今度は高校生も野球をしたいと言って集まるようになり、これの指導も引き受けた。やがて、インドネシア野球連盟バリ支部から高校生の全国大会があるからと、州代表監督を要請され、これを受諾。野中さんはインドネシア野球界の中心的存在となっていく。

そして、ついに2007年にはナショナルチームの監督に就任した。


インドネシア野球の現実


 年々経済発展を遂げるこの国では、アメリカ生まれで日本でも人気のある野球は「クール」なイメージでとらえられている。ただし道具が必要で、その購入にお金がかかる野球は、どうしても富裕層の子どもたちのものになってしまう。これでは、人口の大半がまだまだ貧しいこの国での野球の発展は難しい。だが、野中さんは言う。

「いや、逆に貧困層の子どもも多いですよ。野球連盟が道具を提供してくれるから」

 スポーツで身をたてるというのは、学歴を積み上げることの難しい貧困層の子どもにとってのドリームコースだ。この国の人気スポーツは、バドミントンとサッカーだが、人気スポーツゆえに競争も激しい。ところが、底辺の浅い野球では比較的トップに登り詰めやすい。

この国にプロ野球はないが、途上国の多くがそうであるように、ナショナルチームのメンバーになれば、国際大会などの期間は、本来就いている職の休業補償として手当てが出る。しかし現実には選手の多くはそもそも職についてないので、代表選手としてプレーすることじたいが「職業」となる。そういう貧しい家の出身者でも野球で身をたてることができるよう、野中さんは太平洋に散らばる広い国土の隅々にまで足を運んだ。


インドネシア野球の未来に向けて


 先述したように、インドネシアの野球はインドネシア人に委ねるべきという考えから、いまだ契約は残ってはいるものの、監督の座から退いた。「契約」と言っても報酬をもらっているわけでもない。

 インドネシア代表チームは、アジア大会で10カ国中7位に終わった。1次リーグに当たるラウンド2(この前に予選に当たる3カ国によるラウンド1があった)では、韓国、台湾という強豪に対し、ともに15対0でコールド負けを喫している。

勝ち星は、1次リーグ2グループの下位チームによる順位決定リーグで、予選から出場のタイから挙げた1勝のみ。これも序盤にコールドまであと一息という大量点を入れながら、先発投手がマウンドから降りた途端、大量失点を喫した結果、12対11という薄氷を踏む思いでの勝利であった。

このスコアが示すようにインドネシア野球は、まだまだ日本の草野球レベルを超えるものではない。しかし、実際に彼らのプレーを見てみると、内野手はバウンドが合わない打球も体の前に落とすし、スローイングも丁寧さがうかがえるなど、ハイレベルとは言えないものの、基礎基本をしっかり叩き込まれている印象が強かった。これは野中さんの長年の指導のたまものだろう。

「僕は若い時、自分が好きだった野球で居場所を失ってしまいました。それが人生の中での後悔ですね。その人生のつけを、いま払っているようなもんです。もう僕も57歳、あと何年生きられるかわかりません」

「これはバリのお坊さんから言われた言葉なんですけど、野球が上手かったと言っても、それを教えてくれる人がいなかったら上手くはなっていないだろう。その恩を受けたんだから、生きているうちにその恩を誰かに返していかなければならないよって」

 これからも野中さんは自身のビジネスと並行してインドネシア野球の発展に手弁当で関わっていくという。残りの人生、野球で受けた恩を野球で返していくことに費やしていく覚悟だ。


文=阿佐智(あさ・さとし)
ポスト シェア 送る

もっと読む

  • ALL
  • De
  • 西